1年ほど前から「諸行無常」という言葉が僕の座右の銘になっています。

=========
諸行無常 | Wikipedia
仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。
==========
なぜ、この諸行無常が座右の銘になったかというと、その当時よくチャットをしていた人の影響からです。そして、このことを思い出したのも、久しぶりにその人の文章を読んだから。

1年と少し前にその人といろいろとやりとりしていた時には、その人に対して、人生を楽しんでいてなおかつ真面目で精神的に強い、という印象を当時の僕は持っていました。
というのも、その人の経験してきた出来事が自分の経験と比べてかなり幅広く、それでいてその経験から得られた教訓のようなものを自身の言葉で表現出来ていたからです。実際の経験から人生の教訓を身につけるというのは、知識を持つだけよりも圧倒的に価値があると思うし、経験からそういう教訓を見つけ出せるということは、自身を客観視できていると言えます。
そして、それらのことから、自身は今後どうするべきなのかを考えることができてる。そういうところが強いと感じる部分でした。

ただ、今思い返すと、当時のその人はかなり自壊的で深く悩んでいたのかなと思います。なぜかといえば、当時のその人の書く文章は、半分以上が下ネタか元カレとの思い出話だったから。自分とのチャットではもう少し違う内容のほうが多かったですが、その当時教えてもらったブログはそんな感じでした。僕としては、自分の経験とは全く異なるぶっ飛んだ話や考え方をいろいろと聞けたので、それはそれで良かったと思っています。

その中で一つ、「諸行無常」につながる考え方を持てた出来事として、純愛とは何かについて語っていた事があります。処女じゃないとダメなのかとか一生同じ人じゃないとダメなのかとかいろいろと話していたと思いますが、この話で重要だったのは、「永遠にずっと変わらず愛している」という状態は存在しないということです。「相手はどんな自分でも変わらず愛してくれる」と思った瞬間から自分は傲慢で怠惰になり、相手に好かれるような努力をしなくなり、最終的には愛されるという状態は崩壊してしまう。ずっと変わらず愛されることは無理なのだから、変わり続ける中で努力し続けないといけない、ということです。そして、そういう風に愛されるために成長し続ける姿勢を互いに認め合う事こそが、純愛なのではないかと。
そういえば、この話でもう一つ「諸行無常」につながることがありました。それは、どんな恋人・配偶者でも必ず別れの時が来るということ。普通に破局とか離婚とかもあり得ますが、どんなに仲が良くても最終的には死という別れがあるということです。結婚式の言葉にも「死がふたりを分かつまで」というものがあるように、必ず終わりがくる。だからこそ、別れが訪れるまでにやれることとやりたいことをやっておくべきなのだと。メメント・モリ的な話です。

こんな話をしていて、僕は「諸行無常」を座右の銘にしておこうと思ったのでした。

この話を思い出した出来事が最近あるのですが、そのことについては、また今度書くことにします。