「人の嫌がることを率先してやりましょう」と言ったときに、二通りの捉え方がある。
1つ目は、他の人が嫌がってやらないことを自ら進んでやりましょうという意味での捉え方。例えば、誰もやりたがらないトイレ掃除を自発的にやるといったもの。だいたいが善行として捉えられるものである。
2つ目の捉え方は、その言葉通り、他人が嫌がるようなことをわざとやること。虫嫌いの人に虫を投げつけるとか、その相手に対して悪いことをするというものである。
「人の嫌がることを率先してやる」という同じ文章でも、捉え方によって、実践した際の善悪が正反対となってしまうのである。

なぜこんな話をしているかというと、実行した際の善悪は正反対になるけれども、共通している部分もあるなと思ったから。そして、ゲームの楽しみ方の一つとも共通しているんじゃないかと考えたから。

「人の嫌がることを率先してやる」を実行した際に、善悪は正反対になるけれども、共通している部分もあるという話について。出発地点は一緒で、その後に起こす行動の意図が正反対になっている。その共通点は、善行の場合も悪行の場合も、どちらも「相手が嫌がること」が何なのかを認識しているという点。虫が嫌いとか、高いところが怖いとか。もちろん世間一般で嫌がられることが多いものもあるけれど、その人個人が特に何を嫌がるのか気づける能力は、どちらの場合にも前提として必要である。この人は高いところが怖い(嫌い)ということに気づいて、善行ならじゃあ代わりに高いところに登って作業しましょうと進み出ることができ、悪行ならその人の財布を奪って、梯子で登らないと届かないような高いところに置くことができる。「相手が嫌がることが分かる」というのはどちらにおいても重要なのである。

続いて、ゲームの楽しみ方の話。ここではゲームの中でも、特に対戦相手と競うような対人ゲームを想定してほしい。他の人と対戦するタイプだったらテレビゲームやボードゲーム、カードゲーム、スポーツも含まれる。このようなゲームは戦略を立てて相手の裏をかいたりして勝利を目指す。例えば、卓球だったら相手の苦手なコースを集中して突いたり、苦手なところに打つと思わせておいて逆をついたり。お互いの得意な部分を出し合って良い試合にしましょう、なんてものはなく、相手の苦手な部分を探してそこを突き、精神を揺さぶることで得意なコースも失敗するようになったらこっちのもの、という世界である(※1)。つまり、これらは「相手の嫌がることを率先してやる(悪行のほう)」ことを楽しむものである。
こんなことを書くと「対人ゲームが得意な人は性格が悪いな」と思われてしまいかねないので、次の段落から、もうワンステップ上の、自分の言いたいことを書いていく。

前半に書いたように、「人の嫌がることを率先してやる」には善行・悪行に関わらず「相手が嫌がることが分かる」という共通の能力が必要である。相手が嫌がることが分かるからこそ、率先して親切ができるし、苦手を突くようなこともできる。つまり、対人ゲームが得意な人は、その前提の能力で善行を行うことも得意なのでは、と自分は考えている(※2)。
また、ゲームというのは非日常や非現実を楽しめるものである。町を歩いている人をいきなり殴ったら犯罪だが、テレビゲームの中やボクシングというスポーツとしてならOKなのだ。そう考えると、日常では「相手が嫌がることが分かる」ことを善行に使っている人が、ゲームの中ではそれを悪行に使っても問題無いのだ。むしろ、「たまには悪いことに使ってみたい」という悪魔のささやきを、ゲームの中で解消、ひいては昇華させられるのである。

現実世界では人の嫌がることを率先してやり(善行)、ゲームの中でも人の嫌がることを率先してやり(悪行)ましょう。


※1: ルール違反とかスポーツマンシップに反することはもちろんダメだよ。あと、弱点を突き合うことで結果として互いに良いプレーが出てくることは大いによくあることである。

※2:善行・悪行どちらを行うかは、嫌がることが分かる能力ではなく、道徳心に依存するのかなと思う。



この話は、最近、卓球の大会をYoutubeで見ていたことと、だいぶ前に下記のツイートで書いたことが頭に残っていたことから書き残した次第です。