第2次世界大戦中に、アウシュヴィッツの強制収容所の支所に収容されていた心理学者 ヴィクトール・E・フランクルの著書。
だいぶ前から読もうと思っていて、やっと読めた。
自分が読んだものは旧版(初版が1961年)のものだったので、日本語が古い感じで多少読みにくかった。新版が出ているのでそちらのほうがたぶんおすすめ。
強制収容所の体験を主観的に書くのではなく、心理学者としての視点から、囚人の内的な状態を客観的に書いたことが特徴の本。妻の死についても、「その時妻はすでに殺されていたのだ」の1文のみという客観的な記述。そのため、収容所の悲惨さが伝わるとか感情を揺さぶるというよりかは、淡々と極限状態の人の心理的な状態について自らも体験し、周囲を観察した立場から報告した本になっていた。
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飢餓状態、労働、病気が重なりいつ死んでもおかしくない状況でも、囚人たちの心を救うのが芸術やユーモアであった。食料と同程度もしくはそれ以上に芸術やユーモアが重要というのは、昨今のコロナ自粛の情勢でも芸術が求められる動きと一致する感じがある。
「創造的・享受的な生活だけが意味を持っているわけではなく、生命そのものが一つの意味を持っているなら、苦悩もまた一つの意味を持っているに違いない」という解釈から苦悩から逃避するのではなく、苦悩に真っ向から関わってそれに意味をもたせることで乗り越えられるという考え方も興味深かった。
それに関連して、「何人も彼の代わりに苦悩を苦しみにくことはできないのである」という考え方も良かった。
苦悩を乗り越える手段として、未来に目的を持つことを上げており、「個々の人間を特徴づけ個々の存在に意味を与える唯一性や独自性」が目的として重要で、具体的には、芸術や科学といった創造的な仕事や、他の人間に対する愛がそれに当てはまるらしい。収容所での、未来や過去に思いを馳せ、内的な状態を維持することの話も面白かった。
最後に、収容所から開放された後の心理的な状態も考察しており、それが良いことばかりではないというのも興味深かった。囚人だった頃に期待して心の支えにしてきた光景と開放された後の実際の扱いの違いに落胆したり(そもそも、再開できると思っていた人がすでに存在しないとか)、「自分が囚人だった頃に不遇を受けたのだから自分がたまたま通り道にあった畑を踏み荒らすのは問題ないのだ」という、自分の受けた不正を他人へ行う不正の理由に使うような心理状態になったり。開放されたとしても元通りなんてことにはならないんだなと感じた。