「暇と退屈の倫理学 増補新版」(國分功一郎)

中動態の話や利他に本で知っていた作者なので読んでみた本。
暇と退屈について、いろいろな分野を参照して書かれている。

ちなみに、本書の結論の1つ目として、「結論だけ読んでもだめで、本書を通読して新しい認識を得たことが大事」みたいな話を上げていたので面白い。

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そもそも人間がいつから退屈するようになったのかについて、考古学、人類学の話を参照して考察している。
そもそも人類は遊動生活をしていた。採取や狩りをしながら住む場所もどんどん移動して、新しい環境で暮らしていく術を日々模索する必要があった。
それが定住生活に変わってから、新しい環境に適応する能力が余ることになって、それで退屈するようになったと。
そもそも、遊動生活よりも定住生活が優れているわけではなく、気候変動で採取や狩りがメインの遊動生活ができなくなったから定住生活にならざるを得なかったということらしい。
現代も決まった場所でのゴミ捨てや排泄(赤ちゃんのオムツを外すトイレトレーニングが必要なこと)についてなかなかできないのも、遊動生活では必要なかったのに定住生活に変わってから必要になったことだから、というのはなんか納得できる。
また、定住生活になることで、有り余る能力で芸術とか技術が急激に発展したという。さらに、定住生活では食物などの貯蔵が発生することで、財産という概念が生まれ、経済格差から権力者が現れたりコミュニティやそこでの犯罪を減らすための法が生まれたりという大きな変化があったらしい。
こういう視点から暇と退屈を考察しているのがまず面白い。

他にも、暇と退屈を区別して、「暇である/ない」「退屈である/ない」の二要因二水準で表にして暇と退屈について捉えているのも興味深い。
暇であるが退屈でない状態とか、暇でないが退屈である状態なんかもある。
そこから、退屈の第一形体、第二形体、第三形体なんかの話も出てくる。

また、人間は退屈するが、動物は退屈するのかという視点から、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環世界 Umwelt」の考え方をもとに議論している。
環世界とは、同じ世界でもダニにはダニの感覚器官(嗅覚や温度感覚)で見えている世界があり、人には人の見えている世界があるという考え方。
ダニは、動物が発するという酪酸の匂いを感じたら枝から飛び降りる(視覚は発達していないのでどこに動物がいるかはわからない)という行動ルールで動いているらしい。こういうルールで動いていることに自由意志はあるのかみたいな話にもつながる。行動ルールのことを〈とりさらわれ〉とも言っている。
また、ダニは十八年間ずっと獲物を待ち続けられるらしい。一方で魚のベタは人間よりも早く反応して動ける。そんなところから、環世界のように動物によって時間の感覚も異なってくる。
環世界の話で最終的に言っていたのは、人間は環世界を移動する能力が他の動物よりも発達しているということ。一つの間世界で行動ルールにとりさらわれやすい動物だと、とりさらわれているから退屈しないが、環世界を移動しやすい人間は退屈しやすいのではないかと。

結論の2つ目としては、贅沢を取り戻すこと。消費者のために作られた娯楽では満たされないので、〈物を受け取れ〉るようにしておくこと。つまり、楽しめるようにしておくこと。ここにも途中で出てきたウィリアム・モリスの「民衆の芸術」の話なども出てきていた。
結論の3つ目として、動物のように一つの環世界に〈とりさらわれ〉の状態になること。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物であること〉を待ち構えることができるようになる。ということらしい。

なんか分かったようで良くわからない感じもある。

ちなみに、自分が読んだ増補新版には、あとがきのあとにさらに続きがある。
そこの話も面白くて、そもそもなぜ人は退屈するのか。
「サリエンシー saliency」(突出したことや新奇なこと)という概念や、疼痛研究での当事者研究を参照して説明している。
人は新しい環境などでサリエンシーがあると、それの予測モデルを立てて慣れようとする。
慣れた状態がDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)という、安静時の状態で動くものに蓄えられる。ただ、容易に慣れないサリエンシーを経験すると、DMNに心の痛みや身体の痛みが蓄えられてしまう。そのため、DMNが働かない新しい環境にいる間は痛みが薄まっていても、DMNが働く安静時には蓄えられていた痛みが蘇ってきて慢性疼痛が起こるのではないかという。
疼痛までいかずとも、DMNの安静時に出てくるものが退屈の苦しみなのではないかという話だった。
また、この話の中で、ルソーの自然人という「人間本性」を想定した概念(人間の本性を考えるためには必要であるが、抽象的な人間のため、このような人間は実在しない、哲学では今までこちらを主に扱ってきた)と、「人間の運命」(後天的にいろいろ経験して傷を負ってきた人間)のどちらについても考えることが必要ということを「当事者研究」の話も交えて議論されているのが印象的だった。