「〈私〉を取り戻す哲学」(岩内章太郎)

もともとこの本を読んでいたんだけれど、実は、この中で「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)があげられていたので、そちらをまず読んでみていたという経緯がある。

内容的には、どことなく東洋哲学の考え方に近い感じがあるのかなと思った。自分はあまり東洋哲学は詳しくないし、雰囲気だけだけれども。
また、分人とか、アクターネットワークとか、フッサールの間主観とか、知っている概念が出てきたのが親近感を持てて読めた。それらがこの本の中でどういう位置づけで出てくるのかというところも興味深かった。
それから、フェイク・ニュースと宗教での奇蹟の話も面白かったし、ネガティブ・ケイパビリティとエポケーについても良かった。

以下は読書メモ。

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平野啓一郎の「分人」の概念
谷川嘉浩「常時接続の世界」
マーク・キングウェル『退屈とポスト・トゥルース』

〈私〉に見えているものを見えていないと言うことはできない「絶対性」
〈私〉の見え方は完全なものではない「有限性」

〈私〉の自由に抵抗し、〈私〉の志向力と摩擦を引き起こすこと
自分が思い通りにできないもの、そんなどうにもならないデフォルトと手を組め

退屈した精神の食傷は、〈私〉が自らの欲望を見失い、目標をつくることが難しくなった時代のニヒリズム(世界の一切は根本的には無意味である、という主張、フリードリッヒ・ニーチェ)

東浩紀、オタクの消費行動「データベース消費」 コミュニケーションによって創出される間主観的な構造が消え、各人それぞれが欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態
國分功一郎「暇と退屈の倫理学」、〈動物になること〉という可能性、環世界の移動

「動物化」と「善への意志」

宮台真司『終わりなき日常を生きろ』 「良心的であるがゆえにサリンをばらまく」いわば観念的であるがゆえに出発点から最も遠い場所へと隔たってしまうという逆説

構築主義、すべて(存在と認識)は文化的ー社会的に構築されている
構築主義的相対主義
マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』 新実在論(構築主義の否定)
ブリュノ・ラトゥール「アクターネットワーク理論(ANT)」
SDGsというパッケージ化された善

〈私〉の外側の世界は見るが、〈私〉の内側の声は聴かない。〈私〉のドーナツ化現象

「新デカルト主義」〈私〉の絶対性と有限性を肯定し、一切を主観の内側から打ち立てようとする立場

ピュロン主義の「エポケー」、判断しなくてよいという判断、対象それ自体が何であるかについては判断を保留すること
「アタラクシア」、ピュロン主義者が目指すもの、煩わすものが何もなく穏やかで乱されていない心の状態
ピュロン主義の限界

デカルト「わたしは考える、ゆえに私は存在する」「方法的懐疑」
それぞれの〈私〉が自分なりの絶対性と有限性を引き受けざるをえない
〈私〉と同じ条件を他の〈私〉(他者)も背負っている
過去につくりあげてきた信念や習慣を捨て去ることができない人の二つのタイプ
(1)自分を実際異常に有能だと信じて判断を下し、自分の思考を導いていく忍耐力を持たない人たち
(2)真と偽とを区別する能力が他の人よりも劣っていると思っていて、他者の意見に従うことで満足してしまう人たち
自己批判と自己信頼

エトムント・フッサール「現象学的還元」一切の対象を〈私〉の意識体験における確信とみなすこと
超越(客観)は内在でいかに構成されているのか
間主観性の現象学とは、他我確信の条件と構造(ある対象を見て、それがそれが人だと思う条件とは何か)や、複数の〈私〉の意識体験の共通性を考察する現象学

竹田青嗣、現象学における三つの確信、「主観的確信」「共同的確信」「普遍的確信」
それぞれの対象確信を支える具体的条件が他者に共有される度合いに応じて上記の三つに分類される

西研「反省的エヴィデンス」

新デカルト主義の方法
1. 懐疑とエポケー
2. キーワードの抽出と意識体験の反省
3. 想像力と自由変更
4. 本質の洞察

「形式的民主主義」コミュニケーションの内側に力の要素が入り込んでいて、内実は権力による決定に過ぎない状態

三木那由他、「意味の占有」、発話がどのような意味をもっているのかの決定権を独り占めし、相手が口出しできないようにしたうえで、そのように自分に都合のよいように捻じ曲げた約束事に相手を服従させる、というイメージ

言論は「正しさをめぐる争い」ではなく「協働のプロジェクト」

「フェイク・ニュース」、正しそうに見えて実は間違っている情報
「ポスト・トゥルースの世界観」、客観的事実は重要ではなく、感情や信念への訴えによって事実がつくられていくという見方
「構築主義」、客観的事実は存在せず、事実と呼んでいるものは社会的ー文化的に作られたもの
世間の常識を批判する構築主義は、社会から疎外された人びとを励ます思想となる。マイノリティ側に立つ思想。
構築主義的相対主義の限界、文化や社会の多様性を越境する普遍性を基礎づけることが難しい、力による闘争も一つの正当な手段となってしまう
「人それぞれ」の空気感は明らかに安全であるが、共に生きるための枠組みが成立しなくなる。深く話し合うことをしなくなるなら、私たちは互いに何を考えているのかが分からなくなる。

新デカルト主義では、「〈私〉にはこう見える」を持ち寄って「〈私たち〉にはこう見える」をつくっていく

「陰謀論」明確な根拠がないにもかかわらず、ある事象の背後に何者かの意志が働いているということを断定する
デヴィッド・ヒューム『奇蹟論・迷信論・自殺論』「奇蹟について」聖書における奇蹟の数々についてをテーマとした論文
奇蹟の伝聞は、奇蹟を耳にしたときの驚きと、それを伝達する喜びの連鎖として広がる。ありえないからこそ楽しく、楽しいからこそ広まる
奇蹟の信仰を可能にするのは、理性ではなく情動の働き
陰謀論は理性と情動の両方に訴えかける力を持つ。情動面は、善の意志に突き動かされている。苦しみの原因を見つけようとするあまり、理性が原因を捏造する。

新デカルト主義の核心にあるのは、思考の原理と世界への態度。絶対的な正解を置くことなく、〈私〉の意識体験における世界確信のありようを吟味しながら、他者の意識体験との同型性を探り、そこに共通了解をつくっていく。〈私〉の認識の絶対性と有限性を自覚することで、他の〈私〉が同じ条件に立たされていることを理解し、〈私〉が〈私〉を尊重していく。
自分にとって考える必要がありそうなときに考える準備をしておくこと

ネガティブ・ケイパビリティとしてのエポケー
帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)『ネガティブ・ケイパビリティ』ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐え抜く力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐え抜いていく持続力を生み出すのです。

判断保留は逃げることでも立ち向かうことでもない

デイヴィッド・ボーム『ダイアローグ』
グループで対話すると、参加者は必ず「想定」(物の見方や世界観)を持ち込んでくる。判断保留とは、このような想定を持ち出しも抑えもしないこと。情動をも保留状態に付すべき。
判断保留は思考や情動を抑止することではない。
〈私〉にはどうにもならない状況や、さまざまな「想定」を持つ人びとが集まる対話では、答えを導き出すことを第一義とするのではなく、さしあたり判断を保留してみることを推奨している。

〈私〉の有限性である「弱さ」と「脆さ」
〈私〉の〈私〉に対する自己関係が滑らかになればなるほど、かえってその存在感が薄くなる
自己デザイン志向の限界
サイバースペースでは自己デザイン志向がおのずから優位になる
〈私〉を自由にデザインするという発想は、〈私〉の存在をよく分からないものにすることでもある
むしろデザインできない部分があるからこそ、〈私〉は〈私〉の存在が確かにそこにある、という手触りを感じられる
〈私〉の存在の実在性は、自己デザイン志向に対する〈私〉の抵抗とその摩擦に相関する

「フィルターバブル」興味のありそうな商品、サービス、ニュース、人間、コミュニティなどがアルゴリズム側から一方的に提示される
〈私〉が空虚になっていたとしたら、アルゴリズムが示す〈私〉が自分自身の姿なのかもしれない、と錯覚する

〈私〉が不完全な存在であるからこそ、そこに他者が関与する余地が残される

〈私〉の心には他者の悪意が侵入してくる脆弱性がある
逆に、他者の有限性は、〈私〉がその心に土足で踏み込んでしまうリスクである

現実世界でもサイバースペースでも、人間の摩擦とそれを修復しようとする努力の中に、その関係性の深いリアリティが成立する

新デカルト主義の提案は、〈私〉の内側に視線を移すこと
他の〈私〉も、絶対性と有限性という点では、同じ条件に置かれていることを洞察し、そこにすべての〈私〉への尊重を育む
〈私〉の自由にならない〈私〉や、〈私〉の思い通りにならない関係性は、そこに抵抗と摩擦が認められるからこそ、〈私〉とつながりは存在している