「はてしない物語」(ミヒャエル・エンデ)



(ネタバレ注意)

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だいぶ昔に、はてしない物語の映画化である「ネバーエンディング・ストーリー」を見たことがあって、それをおぼろげには覚えているのですが、あらためて「はてしない物語」を読んでみて非常に面白かったので感想を残しておきます。

内容としては、メタ・ファンタジーという言葉がピッタリの内容。
前半と後半で話の内容が大分できます。前半は、世界の滅亡を食い止めるために冒険する少年アトレーユの話。そして、その物語を現実世界で読んでいる、冴えない少年バスチアンの様子が所々に出てきます。そういう意味で、ファンタジー作品を読んでいる人を描いたメタ・ファンタジーなのです。

ファンタージエンの世界を助けるためには、ファンタージエンを総ている幼ごころの君に新しい名前をつけないといけないけれど、それをできるのは現実世界の人間だけ。そして、その人間が長い間来なかったからファンタージエンは滅びようとしている、というのが、この話だけではなく現実の世界での全体的なファンタジー作品の危機を表しているようでもあります。また、ファンタージエンの滅亡というのが、明確な悪役がいるわけではなく、虚無という何もない場所が色がって蝕んでいっているということ。さらに、その虚無にファンタージエンの生物が吸い込まれると、現実世界に「偽り」として災いをもたらす存在に変わること。その設定が、「現実世界にはファンタジー作品がなくてはならないものである」という主張を伝えていて興味深いのです。

後半は、現実世界のバスチアンがファンタージエンの世界に入った後の物語。ファンタージエンの中では、バスチアンは願えばなんでも叶えることができる万能の存在なのですが、願いを叶える毎に現実世界にいたころの記憶が消えていきます。しかも、願いを叶える力は、現実世界の記憶が無くなれば発揮できなくなるという有限のもの。さらに、記憶がなくなれば現実世界に戻れなくなるというダークな話になっています。

この、「ファンタジーの世界に入ってどんどん記憶を失っていく」という図式が、現実世界から逃避してファンタジーの世界に居続けてはいけない、ということを伝えています。そして、現実世界に帰ったバスチアンはファンタージエンの経験から成長して、母親が亡くなったことやそのせいで落ち込んでいた父親への接し方も変わります。ファンタジーの世界と現実世界が互いに健全であるためのバランスというものが伝わってきて、物語の面白さの他に裏に隠れた作者のメッセージが伝わってくる作品でした。

その他にも感じられたメッセージ性があって、「はてしない物語」の「はてしない」の部分もその一つ。前半の最後に、バスチアンが幼ごころの君に名前をつけなければ延々とそれまでの物語が繰り返されるという描写があり、それが「はてしない」なのかなと思いました。しかし、それ以外にも「はてしない」の本質となるものが散りばめられていました。それというのは、物語の途中で何度も出てくる「これはまた別の物語」という部分。本筋から離れてしまう内容には、毎回この決まり文句がでてきます。これは、物語の途中でまた別の物語が生まれていることを表していて、もしこれが繰り返されれば、新しく生まれた物語からさらに別の物語が生まれ・・・を繰り返し、永遠に終わらない物語になるということです。まさに、はてしない物語。その他にも、ファンタージエンの世界の中でバスチアンが物語を作っていたり、バスチアン以外にも過去にファンタージエンに人が何人もいたり、最後の本屋のシーンでは本屋のお爺さんもファンタージエンに行って幼ごころの君に名前をつけた1人だったり。そういう意味で、たくさんの人が物語を作るからこそ「はてしない物語」になるんだなということがわかりました。また、次の世代に受け継ぐということも意識させられました。前の世代に書かれた物語を読んで、新しい世代の人が感化されて新しい物語を作る。それが次の世代にもつながっていく、という感じで。

ということで、ファンタジー作品でありながら、ファンタジー作品とそれを読む人や作る人はどういう関係であるべきかというメッセージが伝わってくるおもしろい作品でした。

ミヒャエル・エンデの作品は、以前に「モモ」も読んだのですが、それも面白かったので、また他にも読んでみようと思います。



余談
やはり、でゅえるメイトに出てくる「フランネル・ファルコン」や「純白龍フフル」は、「はてしない物語」の幸いの竜フッフールをモデルにしてるんですね。映画の方ではフッフールではなくファルコンという名前だし。